ふと浮かぶ妄想ノート

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女性政治家の活動の歴史

最終更新日 2024年11月6日

「日本の政治の歴史について知りたい」
「女性政治家が少ない理由は?」
「畑恵さんの経歴や実績に興味がある」

現代においても女性の社会参加や立場や平等とは言えず、企業や行政の中で要職に就いている女性の割合も非常に少ないのが日本の現状でしょう。
社会進出が当たり前とされている海外と比べると、まだまだ遅れている状態です。
その世界においてもその地位は男性と比べて劣ることがほとんどで、特に政治への関与は一部の世襲制を除いてほぼない状態でした。
これは日本においても変わらないでしょう。
しかし20世紀に入ると海外では社会全体の考え方が変化していき、すべての人が政治に参加するのが当たり前になっていきます。

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欧米諸国では女性政治家の姿が見られるようになる

少しずつ社会が変わっていく中で欧米諸国では女性政治家の姿が当然のように見られるようになり、政府の要職にも就くようになっています。
欧米や北欧で首脳を務める国について知っている人も多いのではないでしょうか。
欧米としても決して順風満帆で社会進出が進んだ訳ではないはずです。
これまで家庭内の仕事や子育てを一手に担ってきた存在が外部に出てしまうと、男性にとっては不都合になる事実も多数あります。
誰が子育てをするのか、食事や掃除などの家事をするのかといった問題はしかし、生きていく以上本来であれば男性であろうと引き受けなければいけない仕事です。

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欧米の一部の国では平等性を維持するためにクオータ制を採用

欧米の一部の国では平等性を維持するためにクオータ制を採用しており、これもまた女性政治家を育てるために必要な土壌となっています。
クオータ制では要職の一定割合を女性が占めるように定められており、男性ばかりが席を埋める自体を制度で防ぐことが可能です。
ごく自然に男女比が公平であれば必要とされない制度ではありますが、席次を守る制度があることでより安心して活動することができるのも事実でしょう。
クオータ制を採用している国にはフランスなどを挙げることができます。
男性ではない場合、選挙に勝って政治家になるためには多くの苦難を伴います。
有権者の中には女性であること自体に反発する人もおおり、あまりにも女性であることを強く訴えすぎると逆効果になるでしょう。

重要な職には古い考え方を持つ男性が多い

反発は男性にとどまらず同性からも発生します。
同性の票を集めることができれば勝つことできる、あるいは少なくとも圧倒的な得票差で負けることはないといった状況であっても負けることはあるでしょう。
重要な職には古い考え方を持つ男性が多いこともあり、たとえ当選したとしても政治活動が順調に進むとは限りません。
女性政治家の道には様々な苦難が待ち構えていて、その都度乗り越えていく必要があります。

日本で女性の参政権が認められたのは昭和21年

女性政治家の政治参加が遅れている日本では、女性の参政権が認められたのは昭和21年のことでした。
それまで政治は男性のもので、女性には投票の機会すら与えられていませんでした。
昭和21年というこの年代を、案外現代から近いと感じる人も多いかもしれません。
初めての女性政治家として知名度が高いのは市川房枝で、大正時代に設立された新婦人協会に平塚らいてうらと共に参加していた政治家です。
昭和21年4月10日、この日に行われた総選挙で初めて女性が投票します。
この時に誕生した女性の国会議員は39人で、市川房枝の名前もその中にあります。

市川房枝さんの経歴

市川房枝は明治26年に愛知県一宮市に農家に生まれ、戦前から戦後にかけて政治活動に行っていた政治家です。
愛知県第二師範学校女子部に入学した後、愛知県女子師範学校へと移り、第1回卒業生になっています。
在学中にも良妻賢母教育に反対してボイコットするなど、のちの活動への予兆を感じさせる学生時代でした。
卒業後は訓導として務めるものの病気で退職し、1917年には名古屋新聞の記者に採用されています。
日本初の婦人団体である新婦人協会を設立したのは1919年のことで、平塚らいてうら現代でもその名前が残る女性活動家と志を共にしてのことでした。
当時、治安警察法第五条では女性の集会結社の自由を禁止しており、これの改正を求める活動などを行っていたのが新婦人協会です。

1924年には婦人参政権獲得期成同盟会を設立

1921年に渡米した市川房枝はアメリカの婦人運動などを見聞きして学び、1924年には婦人参政権獲得期成同盟会を設立するなどの活動を続けています。
戦後となる1945年はまだ女性の参政権が認められていませんでしたが、戦後対策婦人委員会を組織して引き続き参政権の要求活動を行っています。
市川房枝らの努力が実ったのは同年12月17日のことで、この日、衆議院議員選挙法改正で婦人参政権が認められました。
翌年となる1946年に行われた第22回衆議院議員総選挙では39人の女性政治家が誕生し、女性も男性と同様に政治に参加できる土壌がやっと出来上がっています。
日本の女性の政治への参加率は世界的に見ても低く、まだまだ発展の余地があります。

まとめ

戦前から続いている女性差別の歴史を改善していくためには多くの努力が必要となるでしょう。
社会を平等にするためにはさらに多くの女性の政治家の誕生や、女性の政治参加を推し進めていくことが重要です。