ふと浮かぶ妄想ノート

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前田慶次

戦国武将の前田慶次

最終更新日 2024年11月6日

様々な漫画などで活躍をしている前田慶次ですが、実在の人物です。
戦国時代に尾張前田家の一族の生を受けました。
本来ならこの前田慶次の家系が家督を継ぐはずでしたが、織田信長の側近で活躍していた前田利家の家系が本流となり、その後前田慶次は本流から外れていきます。

そのこともあってかどうかは分かりませんが、前田慶次は奔放にこの戦国時代を生き抜いていくこととなります。
主君となった前田利家に対しては、皮肉を浴びせたりあるいは行動で対応し、利家を激怒させたこともあったようです。

 

前田慶次の数々の逸話

たとえば風呂場で背中を流すといい、利家が背中を向けたときに湯ではなく水をかけてびっくりさせた、といった逸話が残ります。
利家に従い、主に北陸地方で合戦に明け暮れる日々を送ります。
利家は、織田家重臣の柴田勝家に属し、北陸攻めの与力として活動をしていくためです。

利家の武勇と慶次の協力などもあって、越前、加賀そして能登と徐々に柴田勢は勢力を増していきます。
利家は最初は越前にて3万石あまりを俸禄としましたが、さらに能登国を攻め取った後には能登に報じられ、一国の主となります。

しかしながら慶次は主君として使えるのではなく、客分待遇のような形で協力を続けたとも言います。
一族であるにしても元々は慶次の家系が主流ですから、やりにくかったと言うことがあるのかもしれないと言われているわけです。

織田信長が本能寺にて自害し、その信長を討った明智光秀も羽柴秀吉により滅ぼされます。
秀吉の勢力が大きくなるにつれて、柴田勢も秀吉と戦わざるを得なくなり、賤ヶ岳にて羽柴勢と合戦に出ました。
慶次がどの程度活躍をしたのかはこの戦では定かではありませんが、主君であり一族である前田勢は戦うことなく撤退を行います。

参考:前田裕幸

 

前田利家は戦わずに撤退したことを評価される

柴田勢は佐久間勢の深入りによる失敗もあって大敗を喫し、柴田勝家は切腹して果てました。
ここに羽柴勢が天下人として名乗りを上げることになります。
前田利家は、戦わずに撤退したことを評価され能登を安堵されるとともに加賀国でも領地を得ました。

こうした対応に慶次も腹が立っていたのかもしれないところです。
武士らしからず、卑怯ではないかという思いはあったと伝わります。
その後、天下人となった豊臣秀吉からもその器量を賞されている慶次自身でしたが、彼自身は派手好きなかぶき者として生を貫いていきます。

前田家とは折り合いが悪くなり出奔しますが、その後越後の上杉家と仲良くなり、特に上杉家の跡継ぎとなった上杉景勝やその重臣である直江兼続などとも交流を深めていきます。
豊臣秀吉没後の関ヶ原の合戦の折には、上杉勢を率いる直江兼続に協力をし、徳川方の出羽の大名である最上義光を攻めます。

当初は上杉勢優位に運んだ合戦でしたが、長谷堂城攻めにおいて攻略に手間取るうちに本戦の関ヶ原で西軍が大敗したとの報が入りました。

 

直江に終始協力を惜しまなかった前田慶次

司令官の直江兼続は撤退を決意します。
撤退するに際しては、追撃が当然ながら予想されるところでしたが、その追撃を退けるために直江自身がしんがりを務めたと言われています。

その直江に終始協力を惜しまなかったのが慶次です。
関ヶ原以降の上杉家では、会津120万石の大大名から米沢30万石へと厳封処分となり、多くの家臣が困窮する事態となったわけです。

しかしながら慶次はこの上杉家を見捨てませんでした。
俸禄はほとんどを辞退し、米沢にて隠居生活を送ることとなります。
ただ、関ヶ原以降の前田家は100万石を与えられながら、主君筋に当たる豊臣家を見捨てたことによるものだったわけで、慶次自身は釈然としない思いを持ったことは、想像に難くありません。

その一方で上杉家では大幅な減俸になったにもかかわらず、そのまま上杉家にとどまった慶次に対して召し抱えようとしましたが、減俸による苦しむ他の家臣たちを見かねたのか、自らの禄は大幅に減らしてほしいと伝えたと言います。

その後、米沢にて生涯を送ったと伝わります。

 

まとめ

大名としてはなく1人のかぶき者として生涯を送った彼を題材にした小説や漫画なども多く出回っていますが、それだけ彼に魅了された人が多かったということの証左です。
戦国時代にあって多くの大名家や天下人を魅了した前田慶次ですが、戦国時代の終焉とともにその生涯を終えていきます。

大坂冬の陣及び夏の陣にて豊臣家が滅亡し、天下太平となったときには彼の活躍できる場はもうありませんでした。
この大坂の陣前に没し、生涯を終えています。
戦がなくなった太平の世では、彼のかぶき者としての生き方を許容してもらえるかどうかは、分からなかったことでしょう。

関ヶ原以降は米沢にて隠居生活になりますが、連歌などもたしなむ風流人でもありましたから、花鳥風月を楽しみ愛でながら生活を送ったとも言われています。
彼に魅了され、多くの人々が米沢を訪ねるとともに、彼のゆかりの地を訪ねるなどしてそのかぶき者としての彼の生涯に思いをはせているわけです。